こんにちは、昭和63年生まれのゼロワン しょーじです。
最近、同級生と会えば必ず話題になることがあります!
それは……
ヤバイ、来年30歳やん!!
ここ数年は「アラサー」という言葉を自分たちに向けて使いながらも、
「いやー、とはいえ20代やしな」と30歳は近くて遠い存在でした。
ところが29歳になると、「来年30歳」という事実を突きつけられたように感じ始めました。そこからはなんだかそわそわしたり、30代の10年はどんなことが起こるのかな? と楽しみになったりと、いろんな感情が行き来しました。
有名武将のアラサーはどんな感じだったのか?
チャンバラをとおして各地の武将隊の皆さまと戦場でご一緒させてもらったり、日本史について勉強してみたりするのですが、中学高校で習ったように「長篠の戦いは1575年」や「1600年の関ヶ原の戦いは徳川家康と石田三成が主役だった」などと出来事・人物と年号を合わせて覚えることがほとんどでしたよね。
しかし、「川中島の戦いが始まったとき武田信玄は何歳だったのか?」「秀吉が天下を取ったのは何歳だったのか?」など、歴史上の人物が何歳に時になにを経験したのかは、意識していなかったことに気が付きました。
そこで、今回はアラサーの定義を27歳から33歳として、有名な武将がその時期をどのように過ごしたのか調べてみました。
尾張の大うつけ 織田 信長
織田 信長
生誕:1534年 死去:1582年(48歳)
アラサー期:1561年〜1567年
戦国時代の三英傑として、誰もが知る歴史上の人物である織田信長。
2歳で城主に任命される家柄で生まれ、幼少期から奇天烈な行動が多かったため、尾張の大うつけと周りから呼ばれていました。
13歳で初陣を飾り、1559年の25歳には尾張を統一し勢力を広め始めます。
26歳のとき、桶狭間の戦いで今川義元を撃破し、28歳で松平元康(徳川家康)と清洲同盟を結び足場をさらに固めます。
1567年33歳で、美濃の攻略を成功させ「天下布武」の朱印を使用し始めました。ここから信長の本格的な天下統一への道がはじまったのです。
アラサーを越えてからは、天下統一を目指す道のりとして金ケ崎の退き口・姉川の戦い・三方ヶ原の戦い・比叡山焼き討ち・長篠の戦いなど、歴史の教科書で習った合戦で、信長包囲網のなか勝ち負けを重ねます。
本能寺の変で自害したのが1582年48歳のときでした。
きんかん頭 明智光秀
明智 光秀
生誕:1528年 死去:1582年(54歳)
1555年〜1561年
織田信長に仕えながら謀反により本能寺の変を起こしたことで知られる明智光秀。
青年期の情報はほとんど残っておらず、生まれた年も諸説あります。
光秀は朝倉義景に仕えた後に、40歳(1568年)で足利義昭・織田信長の元にやってきます。
その後、約10年かけて織田軍の出世頭へとなったのです。
本能寺の変が起こったのは1582年。光秀が54歳のときでした。
本能寺の変は明智光秀が悪であったという定説が一般的ですが、今年発売されたこの漫画が話題になっていますよ。
まとめ
織田信長は、幼少期からそのカリスマ性や特異性を発揮し、これまでの武将が誰もなし得なかった天下統一を目指して邁進していく人生を歩みました。
アラサー期には着実に領土を広め、優秀な部下を増やしたことから、織田軍の勢力を拡大する助走期間になっていたのでしょう。
その助走期間によって、誰もが知る歴史上の人物になれたといってもいいかもしれません。
一方、明智光秀はアラサー期に関する情報があまりないので、この時期は歴史の上で無名の存在でした。
しかし、アラサー期から約20年後に本能寺の変を起こして、歴史を変える人物にまでなったのです。
それぞれのアラサー時期での目立ち方は異なる信長と光秀ですが、両者にとって大切な準備期間であったことは共通している点ですね。