人は石垣、人は城、人は堀。情けは味方、あだは敵なり!!こんばんは。チャンバラ運営東京チームの長野です。 世の中には暴いてはいけない過去がある。世の中には公表してはいけない闇がある。そんな歴史を白日の下に晒すのがこの企画である。
しかし歴史を紐解くというのは、非常にリスクある所業である。 なぜならば現代でも各所に戦国武将の後援会が存在する為、 戦国時代の闇を暴くことによって、どんなクレーム、バッシングを受けるか、一体全体分からないからである。
だが、今回は執筆するにあたり、敢えて主張したい! 私の祖先は完全にNOUMIN(農民)だ!! もう一度言おう! 戦国武将とは、全く関係ない四国の農民なのである!
よって、今回ここで戦国武将の秘密を晒しても、私を叩くこともできなければ、バッシングを受ける事もない、超絶安全ポジション(つまり、何を言っても大した影響はない。)という事を証明してからの書き出しなのである。(武将の後援会とか、見るなよ~。くんなよ~。)
さて。それではアッと驚く武将の面白い話を紹介していこう! 企画第二弾! くっそワロタ!絶対に暴露してはいけない戦国武将の秘密はじまりはじまり~!!
Let’s Open The History Door!!
味方を後方支援!? ではなく、後方射撃!! 理由は、、、くっそ邪魔だったから!?
戦国時代後期。あと10年早く産まれれば天下統一をできたと囁かれている戦国武将が奥州(今の仙台辺り)にいた。そう。彼の名は、独眼竜 伊達政宗である。
まずは政宗の優秀さを知るエピソードを紹介しよう。戦国時代後期、秀吉は天下統一事業を果たし、時の最高権力者となっていた。各大名は政務を全うするために秀吉の元へ登城するのだが、秀吉は城内に気性の荒い猿達を所々に配置していたのである。
この気性の荒い猿達は登城する大名たちを威嚇し、歯をむき出して飛びかかってくるのである。戦国武将といえども安全なはずの城内で、突然猿に襲われてはたまらない。そんな慌てふためく武将たちを見て、秀吉は大爆笑していたのであった。
しかし、この噂を聞きつけた政宗は、こっそり秀吉の猿使いに賄賂を渡し、気性の荒い猿達を集めたのである。そして、鞭を用いて徹底的にSMプレイを行った。これは、猿達もたまったものではない。政宗の顔を見ただけで、本能的に逃げてしまうまでになったのである。
そして、いよいよ伊達政宗が登城する日である。現代の我々からすると、伊達男の象徴である政宗であるが、猿達からするとSMを象徴する女王様である。結果は予想どおり。政宗の顔を見ただけで、気性の荒い猿達は逃げ散らかしたのである。この光景を見た秀吉は、
「おのれ政宗め。また先回りしやがって、、、、」
と苦言を吐いたという。織田信長の時代から常に機転と先回りでのし上がってきた秀吉を唸らせたという伊達政宗の用意周到さを物語るエピソードである。
そしてここからが本題だ。政宗は本当に優秀だったのであろうか? 10年早く産まれれば天下統一をできた男なのだろうか? この真実は、正直分からない。しかし、私が確実に言い切れるのは、伊達政宗とは何をしでかすか分からない、今風に言うと、ドキュン(以後、DQN)であったことは確かである。そこで、政宗のDQNの極みともいえる史実を紹介しよう。
時は大坂夏の陣。秀吉の死後、圧倒的な勢力を見せつけた徳川家康軍の一武将として伊達政宗は出陣していた。(この時点で、寵愛を受けた秀吉をあっさりと裏切り、徳川軍に寝返っていた)
手柄を上げたい政宗であったが、前を進む神保相茂隊が邪魔でしかたなかったのだろう。その結果、驚きの行動に出たのである。
その行動とは、、、、味方部隊への後方射撃である。
ここでいう後方射撃とは、敵軍に攻めかかる神保隊を後方支援するのではなく、まさに神保隊を後方から鉄砲でめちゃくちゃに討ち取ったのである。その数270名とも言われている。
勿論、味方270名を後方から討ち取ったのは前代未聞の出来事である。そして、この行動は合戦後に大きな問題となった。しかし、政宗はこう言い放ったという。
「確かに味方を撃ったのは事実!しかし、60万石を有する我が軍隊の兵法には、敵味方の区別は一切ございません。神保隊が、敵に追いかけ回され本陣に逃げ込んできたため、仕方なく撃ったのです。むしろ、神保隊を殲滅したからこそ、手柄を立て、徳川家にご奉公ができたのです!」
確かに、敵軍に追いかけられている隊を庇い、自軍に引き受けるのは非常に大きな混乱を招く。その結果、多くの戦死者が出るという可能性も大いにある。
しかし、他の隊からの報告では、神保隊は休んでいただけであり、追いかけられていたという事実は、どうやらなかったようなのである。
当時60万石を保有していた伊達軍を刺激してはいけないという理由から、徳川家はこの所業を深く追求せずに無罪放免としたのである。
DQNはなぜ怖いのか?
喧嘩っぱやいからか? 顔が怖いからか? カツアゲしてくるからか?
そうではない。DQNの真の怖さとは、切れると何をするのか分からないから怖いのである。以上、伊達政宗のDQNエピソードであった。
現代に残る浮気の言い訳の手紙! 書いたのは、だぁ~れだ!?
知力、武力、統率力を極限まで求められ、一つの選択ミスが即ち滅亡につながるという戦国時代を生き抜いた男の中の男達。それが戦国武将である。また、絶世の美女達を正室、妾に迎え入り、文字通りやりたい放題の武将たちであったので、様々な嫉妬や増悪を連鎖させたのも事実である。今回はそんな恋愛の嫉妬に対して、何とも恥ずかしい言い訳を手紙に残してしまった武将を取り上げよう。
早速その原文を以下に記載する。
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一、弥七郎にしきりに度々申し候へども、虫気の由申し候間、了簡なく候。全くわが偽りになく候。
一、弥七郎伽に寝させ申し候事これなく候。この前にもその儀なく候。いはんや昼夜とも弥七郎とその儀なく候。なかんづく今夜存知よらず候のこと。
一、別して知音申し度きまま、急々走り廻ひ候へば、かへって御疑ひ迷惑に候。 この条々、偽り候はば、当国一ニ三明神、富士、白山、ことには八幡大菩薩、諏訪上下大明神、罰を蒙るべきものなり。よって件の如し。内々宝印にて申すべく候へども、甲役人多く候間、白紙にて。明日重ねてなりとも申すべく候。
七月五日 晴信(花押)
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いかがだろうか、、、恐らく95%の人が、1行目を読んで、その後は読み流したであろう。そこで、この原文を分かりやすく現代風に訳してみたいと思う。
一、 実は一回だけ弥七郎を誘ったことはあるよ!!でも、その時に、お腹が痛いという理由で断られたし、マジで会ってないよ!
一、 今までも、今夜も弥七郎と浮気しようなんて考えたことはないから!!マジで愛しているのはお前だけだから!!
一、 本来なら神に誓いを立てた上で手紙を書くべきだけど、役人を通さないといけないから、取り急ぎの手紙だけで申し訳ない。これでも俺が浮気してないってことが信じられないなら、正式に神に誓いに行くから! な!? 頼む! 信じて! 浮気してないからね! な!?
この様に原文を読み解いていくと、様々な疑問が浮かんでくるだろう。
さて。一旦、ここで登場人物の整理しよう。
① 晴信
② 弥七郎君
③ 浮気を妬んでる人
歴史の真実を紐解いていくにあたりこの3人が登場するのである。さて。この3人とは誰なのであろうか?
①晴信
手紙を書いた主である。そしてこの晴信とは、武田信玄なのだ。晴信とは信玄の昔の名前である。一般的には信玄がメジャーであるが、実は出家をする40歳位までは、晴信であったのだ。つまり、浮気の言い訳をしていたのは、武田信玄その人であったという事だ。
②弥七郎君
弥七郎とは信玄の近習(お世話役)である。そして、名前から分かる通り男である。晴信に言い寄られ、ある人に嫉妬されるという迷惑を受けたかわいそうな男でもあるのだ。
③浮気を妬んでいる人
さて。最も重要なのがこの3人目の登場人物であろう。そして、この3人目の登場人物もまた、男なのである。しかも、彼は後に武田二十四将の一人となり、武田四名臣にまで上り詰めた名将である。
そう。この3人目の登場人物とは知略、武勇、美貌を兼ね備えた戦国武将高坂正信である。
つまりこの手紙は武田信玄(男)が、弥七郎(男)を誘った事を、高坂正信(男)が妬み、信玄は高坂に浮気はしていない!愛しているのはお前だけだ!!と弁明している手紙だったのである。 (一度、弥七郎君を誘ったけど断られたと書いちゃってますが、、、)
もうここまでくれば、
「ちょと待って♪ちょと待っておに~さん♪男同士で何やってんの?」
とラッスンゴレライの歌詞にスーっと入りそうな事態だが、これが戦国時代の実態であったこともまた、事実なのである。
織田信長、上杉謙信、徳川家康、伊達政宗など名だたる戦国武将を初めとして、ほとんどの武将はホモセクシャルであり、それが当たり前の時代だった。強いて言うならば豊臣秀吉だけは、女性が好き過ぎてそうではなかったらしいが、これはこれで問題である。
本来男とは男を愛せる生き物なのかもしれない。かくいう私も、最近、、、。いや。これは別の機会にしよう。(ちなみに別の機会は絶対にない)
さぁ。今回もたくさんの秘密を公開したわけであるが、まだまだ戦国武将達は、私たちが想像しえない歴史を隠しているのである。機会があれば、この歴史を白日の元に晒していきたいと思う。
それでは、またお会いしましょう! シーユー!!