戦国時代の有名な奇襲戦術12選【実例で紹介】

2025.05.28

戦国時代には、数で勝る敵を相手に「いかにして勝つか」が問われる場面が多くありました。限られた兵力と情報の中で勝利をつかむために、武将たちは地形や天候、時間帯、相手の心理を巧みに利用し、“奇襲戦術”を駆使しました。

奇襲とは、敵の虚を突き、意表を突くことで形成を逆転させる戦い方です。背後からの攻撃、夜襲、伏兵、陽動―その形は多様ですが、どれも共通して「相手の予想を裏切ること」が成功の鍵となっています。

この記事では、戦国時代の代表的な奇襲戦術を7つ紹介し、それぞれの戦い方から現代にも通じる知恵を探っていきます。

あわせて、“奇襲の体験”として注目されている体験型イベント『チャンバラ合戦』についてもご紹介します。参加者が陣営に分かれ、柔らかい刀で戦うアクティビティで、戦国さながらの奇襲・駆け引き・戦術を、楽しく安全に体感できる企画です。

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そもそも“奇襲戦術”とは何か?

奇襲戦術とは、敵の予測しないタイミングや場所から攻撃を仕掛け、戦況をひっくり返す戦い方です。戦力に劣る側が勝機を見出すための有効な手段として、古来より多くの戦場で使われてきました。

戦国時代は、通信や偵察手段が未発達だったため、相手の裏をかく戦法が有効でした。地形・天候・時間帯などの条件を活かし、戦場では夜襲・伏兵・陽動など多彩な奇襲が用いられました。

奇襲には「挟撃型」「時間差型」「伏兵型」などさまざまな形式がありますが、共通して重要なのは、相手の想定を超えること。成功には緻密な準備と観察が欠かせません。

戦国時代の有名な奇襲戦術7選【実例で紹介】

① 厳島の戦い(1555年)|毛利元就の“嵐の夜襲”

奇襲戦術の完成度がきわめて高かった戦として知られるのが、毛利元就による厳島の戦いです。

陶晴賢(すえ はるかた)は、かつて中国地方一帯に勢力を持っていた大内氏の家臣でしたが、主家を下剋上で乗っ取って実権を握った人物です。そんな陶晴賢の軍勢約2万が厳島に布陣した際、毛利元就はわずか4千の兵で決死の奇襲を決行しました。

嵐の夜、海から密かに上陸した毛利軍は、地形と天候を最大限に活かし、陶軍の背後から一気に攻め立てます。不意を突かれた陶軍は混乱し、晴賢は討死。戦局は一夜にしてひっくり返されました。

この戦いの教訓は、勝敗を分けるのは数ではなく、「選んだ舞台とタイミング」であるということです。限定空間での急襲は、まさに奇襲の本質です。

② 川中島の戦い・第四次(1561年)|“奇襲を返す奇襲”の知略合戦

武田信玄の「啄木鳥戦法」は、主力を囮にして敵の背後を突くという奇襲戦術でした。

しかし、上杉謙信はそれを読み切り、逆に武田の本陣を直撃しました。大将同士が一騎打ちを演じるほどの混戦となり、武田軍の副将・山本勘助が討死するなど大きな損害が出て、信玄の作戦は破綻しました。

この戦いの本質は、“奇襲が必ずしも成功するわけではない”という教訓です。奇襲とは「情報を制する者が勝つ」戦術であり、見破られた時のリスクも非常に大きいのです。

また、戦国時代の合戦では偵察力や指揮官の判断力が重要であったことも、この戦いから読み取れます。謙信のように相手の意図を読み切り、先手を打つことで優位に立つことが可能であり、奇襲には“見抜く側”の能力も問われるのです。

③ 高天神城の戦い(1574年・1581年)|補給線を断ち、心理を突く籠城奇襲

高天神城は、遠江の要衝として戦略的に重要な位置にあり、武田勝頼と徳川家康が二度に渡り争奪戦を繰り広げました。

1574年に武田勝頼が攻略した後、1581年に徳川家康が再奪取を目指して攻城を開始。家康は正面からの攻撃を避け、兵糧攻めを中心とした持久戦を展開。補給線を断たれた城内は徐々に疲弊し、戦わずして守備兵の士気と体力が削がれていきました。

そして、満を持して突如総攻撃をかけ、武田方は壊滅。高天神城は落城し、以後の武田家の衰退につながる大きな転機となりました。

この戦いは、奇襲と持久戦を組み合わせた高度な戦略の一例であり、敵の心理と補給を突く戦法として、戦国期を代表する籠城戦のひとつとされています。

④ 山崎の戦い(1582年)|“電撃布陣”によるタイミング奇襲

本能寺の変の直後、羽柴秀吉は明智光秀に奇襲を仕掛けるべく、中国地方から京へ向けて異例の速さで進軍しました。これが「中国大返し」として知られる戦術です。

秀吉は十日足らずで京都近くに到達し、山崎の地で光秀軍と対峙。夜通し進軍し、明け方には戦列を整えたとされる記録もあります。光秀は想定以上の早さで到着した秀吉軍に対応しきれず、敗走しました。

この戦いは、わずかな時間で劣勢を挽回し、主導権を奪い返すという意味で、奇襲の中でも“迅速性”を極めた戦例といえます。また、秀吉の判断力と部隊統率力の高さも際立っており、情報収集と状況判断の速さが勝利に直結した好例として知られています。

⑤ 小牧・長久手の戦い(1584年)|誘い込み伏兵で局地制圧

この戦いで徳川家康は、羽柴秀吉の部将・池田恒興らを巧みに誘導し、複数の伏兵によって撃破しました。

家康は表面的に拠点を放棄するように見せかけ、敵に「勝てる」と思わせた上で、誘導ルートをあらかじめ設計していました。敵軍がその通りに進軍した瞬間、伏兵が四方から一斉に襲い掛かり、池田恒興・森長可らは討ち取られ、秀吉側は大損害を被りました。

この戦術は、表面の行動の裏にある緻密な導線設計と心理戦が光る一例です。奇襲の成功には、いかにして敵に「思い通りに動いてもらうか」という視点が欠かせないことを教えてくれます。

⑥ 三方ヶ原の戦い(1573年)|武田信玄の“圧”で潰すプレッシャー奇襲

武田信玄が徳川家康を破った三方ヶ原では、真正面からの奇襲が行われました。

信玄は戦線をあえて下げたふりをして敵を油断させ、前進してきた家康軍を横撃。戦意を失わせ、一気に潰走させます。

奇襲は単なる裏取りだけではなく、「圧倒的な速度と力で一気に制圧する」ことで心理的な奇襲を与える場合もあります。この“圧”をかける戦法は、短時間で印象を残すイベントや広告の手法にも応用可能です。

⑦ 桶狭間の戦い(1560年)|織田信長の“王道奇襲”で歴史を変える

戦国時代における最も有名な奇襲戦術のひとつが、織田信長による桶狭間の戦いです。

信長は2,000〜3,000の兵力で、4万ともいわれる今川義元軍に対して奇襲を決行しました。豪雨の中、狭い谷間を抜けて敵本陣に奇襲を仕掛け、大将・今川義元を討ち取るという歴史的な勝利を収めました。

この戦いの真髄は、単なる奇襲ではなく、事前の入念な偵察、兵の練度、そして信長の迅速な決断力にあります。準備と判断が揃って初めて、不利を覆す“王道の奇襲”が可能となるのです。

戦国時代において、圧倒的な劣勢を覆すには「奇襲しかない」という定石を体現したこの戦いは、まさに奇襲戦術の教科書ともいえる一戦です。

⑧ 鳥取城の兵糧攻め(1581年)|兵糧封鎖で敵を戦わずして屈服させる

羽柴秀吉が鳥取城を包囲した際、正攻法での攻撃ではなく、補給線を断ち完全な兵糧攻めを敢行しました。秀吉は事前に周囲の米を高値で買い占め、食糧の流通を封じたうえで、長期間にわたって包囲を継続。内部の兵士や民衆を飢餓状態に追い込むという徹底した作戦でした。

この兵糧攻めは、直接的な戦闘を避けつつ、敵の戦意と持久力を奪うという心理的奇襲でもありました。鳥取城内では食料が尽き、人々が草や木の皮を食べるなど過酷な状況となり、最終的に開城に至ったとされています。

秀吉のこの戦術は、単なる包囲戦ではなく、周到な準備と情報統制、経済的手段を駆使した“持久型の奇襲”といえるでしょう。

⑨ 忍城水攻め(1590年)|自然を利用した包囲と奇襲の融合

豊臣秀吉による小田原征伐の一環で、石田三成は関東の忍城(おしじょう)攻略を任されました。この城は沼地に囲まれた天然の要害であり、堅牢さから“小田原の浮城”とも呼ばれていました。

三成は正面攻撃ではなく、周囲の河川から水を引き込んで城を水没させるという“水攻め”を決行します。堤防を築き、利根川の水を導くという大規模な土木作戦でしたが、城方は舟を使って応戦し、また堤防の一部が決壊するなどして城は落ちず、最終的に三成は攻略を断念しました。

この戦術は、自然の力を用いた包囲と奇襲の融合であり、通常の兵力による攻撃とは異なる視点からの攻め方でした。結果的に失敗に終わったものの、自然環境を“武器”として活用しようとする発想の柔軟さは注目に値します。

忍城の戦いは、戦国末期における石田三成の評価にも影響を与えたエピソードであり、単なる戦術の成功・失敗にとどまらない歴史的意義を持っています。

⑩ 一ノ谷の戦い(1184年)|崖下からの騎馬奇襲(番外:源平合戦)

戦国ではありませんが、源義経による“鵯越え(ひよどりごえ)”は、まさに奇襲の極致です。常識では不可能と思われた急峻な崖を騎馬隊で駆け下り、敵の背後を突いて奇襲を成功させました。

平家軍はまさか背後から攻撃されるとは考えておらず、大混乱に陥りました。義経の少数精鋭の軍が戦局を一変させたことで、源氏軍は一ノ谷の戦いに勝利します。

この戦術は、「不可能」とされていた突破口を開く発想の転換と、それを実行する胆力・準備力の結晶です。中世の合戦の中でも特に伝説的な奇襲例として、今なお語り継がれています。

⑪ 小田原征伐(1590年)|各地を同時攻撃するマルチ奇襲戦術

豊臣秀吉は小田原城を包囲する一方で、関東一円に散在する北条方の支城群を並行して攻略しました。彼は各方面に大名たちの軍勢を派遣し、複数拠点を一斉に攻める戦術を展開しました。

この戦略は北条方の指揮系統や防衛判断を混乱させ、防御のリソースを分散させることにつながりました。秀吉の軍勢は各地で迅速に支城を陥落させ、本丸たる小田原城を孤立させる結果となります。

同時多発的に攻勢をかけることで敵の統制を崩すこの戦術は、まさに“分散型奇襲”といえるものでした。

⑫ 木津川口の戦い(1578年)|鉄甲船による海上からの奇襲

織田水軍が毛利方の村上水軍を破るために投入したのが“鉄甲船”でした。従来の火矢が効かない装甲船を使って海上から奇襲的に突入し、敵を翻弄しました。

この戦いは、新たな技術を戦術に組み込むことの重要性を示した事例です。鉄甲船は防御力が高く、火力にも優れ、火矢や火計といった従来の攻撃手段が通じないという特性を持っていました。これにより、村上水軍の優位性を打破し、戦況を有利に運ぶことができました。

技術革新が戦局を左右したこの戦いは、戦国時代の中でも特に注目される“技術型奇襲”の好例といえるでしょう。

イベント企画に活かす“奇襲思考”のすすめ

イベントやプロモーションにおいても、奇襲戦術に学ぶべき要素は数多くあります。なかでも重要なのは「予想を裏切る展開」です。あらかじめ予定された流れに“意外性”が加わることで、参加者の関心を惹きつけ、印象に残る体験となります。

例えば、イベントの最中に突然始まるチャンバラ合戦。参加型の演出として用いれば、観客は“巻き込まれ体験”を通じて強い印象を持ちます。予想を超えた出来事は、それだけで記憶に残る特別な瞬間になります。

また、戦国イベントでは「ストーリー仕立て」や「タイムトリップ演出」といった工夫が、現代人にとっての“非日常”を生み出します。あえて直前まで詳細を伏せておく、あえて“見せない時間”をつくるといった演出も、奇襲の思想を応用したものです。

企画立案時には、「逆転発想」や「第三の選択肢」の導入が鍵になります。常識や既存の成功パターンを一度疑い、“裏”や“抜け道”を考えてみる。その姿勢が、イベントに新たな息吹を吹き込みます。

参加者の期待を“良い意味で裏切る”こと。これこそが、奇襲思考の本質です。

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まとめ

戦国の奇襲戦術が教えてくれるのは、「意外性」と「準備力」の掛け合わせが最大の武器になるということです。

合戦もイベントも、最終的に人の心を動かした者が勝つ世界。予測を超える仕掛けと、それを可能にする準備こそが、成功への近道です。

あなたの次の企画にも、“奇襲の発想”を取り入れてみませんか? きっと、参加者の心に残る、歴史に残るような成功につながるはずです。 2,000〜3,000の兵で、4万とも言われる今川義元軍に奇襲を仕掛けた信長は、豪雨の中で狭い谷間を使い、大将首を討ち取るという歴史的勝利を収めました。

「不利を覆すには奇襲しかない」という定石を地で行く戦いは、まさに“奇襲の教科書”。とはいえ、それを成し遂げた背景には、事前の偵察、兵の訓練、決断の早さがありました。

企画においても、「大胆さ」の裏には「細部の詰め」がある。王道だからこそ、もっとも学ぶべき奇襲戦術です。

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